ニコライ・ロスラヴェッツ(Николай Андреевич Рославец; ラテン文字への転写例Nikolai Andreyevitch Roslavets, 1881年1月5日(旧暦1880年12月23日) ドゥシャーティノ - 1944年8月23日 モスクワ)はウクライナ出身のソ連邦の作曲家。ロシア革命直後のロシアの作曲界で最も重要な人物の一人である。ロシア・アヴァンギャルドの作曲家の一人として前衛的な創作活動を行い、ソ連揺籃期において、西側の新音楽を積極的に擁護した。また、シェーンベルクとは別に、ロシアにおいて独自の十二音技法を発展させた作曲家であると見られたこともあったが、これに関しては疑問の声も出ている。[1]1920年代の末になると政治的弾圧を受け、実質上のペルソナ・ノン・グラータとして余生を送った。
ソ連の作曲家に珍しく、農民の出自であると称していた(ただし、現在これには疑問もなくはない)。生地ドゥシャーティノについては、1924年にさかのぼる自伝的なメモの中で、「人里淋しい、ウクライナ人とベラルーシ人が半々の土地」と呼んでいる。
1890年代にクルスクで音楽の学習を始め、やがてモスクワ音楽院ヴァイオリン科に進学。作曲科にも在籍し、セルゲイ・ワシレンコとミハイル・イッポリトフ=イワノフにも師事。1912年にカンタータ「天と地」により銀メダルを得て卒業。1915年から、ロシア未来派の音楽家として活動に入る。1917年にロシア革命を歓迎し、アレクサンドル・モソロフやアルトゥール・ルリエらとともに、ソ連草創期の前衛芸術運動の中核を担った。
1917年10月からハリコフ音楽院の院長を務めた後、1924年にモスクワに戻って国立出版局に地位を得て、その政治部を監督し、雑誌「音楽文化 Muzykalnaya Kultura 」の編集主幹を務めるかたわら、現代音楽協会(ACM)の指導者の一人となった。「極左」「知的で創造的なプロレタリア」と公言していた(ここでいう「極左」とは、芸術的にも思想的にも極めて革新的、前衛的であるということを表明しているのであって、テロリストや過激派であると言う意味ではない点に注意が必要である)ロスラヴェッツの芸術的な方向性は、新ウィーン楽派の作品の上演を支持した態度や、「偽りのプロレタリア音楽」といった論文からも明らかである。1927年のロシア革命10周年の記念行事において、カンタータ「十月」がショスタコーヴィチの「十月革命に捧ぐ」とともに初演される。しかしながらこの頃すでにロスラヴェッツは、「労働者音楽」の唱導者(とりわけ「ロシア・プロレタリア音楽家同盟」)らによって、「反革命的」「ブルジョワ趣味」と攻撃されるようになっていた。
1929年に「人民の敵」という烙印を押され、1930年には以前の芸術的信念について公式に自己批判することを余儀なくされる。しばらくウズベク共和国のタシケントに過ごしたものの、1933年にモスクワに戻り、工科学校の教師や、軍楽隊の指揮者を務めた。1940年にようやくソビエト作曲家同盟への入会が認められるも、同年に心臓発作を起こし、病に倒れたまま二度目の発作によって1944年に他界した。
志向
ロスラヴェッツは在学中から、ロシア未来主義やロシア象徴主義などの新しい理想によって引き起こされた激しい芸術論争に加わっており、マレーヴィチのような美術家と近しかった。ロスラヴェッツの個人様式の探求は、スクリャービンの後期作品に深く影響されつつ、1909年に始まり、「合成和音」に基づく1913年の新たな和声体系という問題提起へとたどり着いた。その発想は、スクリャービンの神秘和音に近い。1920年代初頭までにロスラヴェッツは時々「ロシアのシェーンベルク」と呼ばわれたが、いみじくも評論家イェフゲーニ・ブラウドは、1925年に出版された論文において、シェーンベルクがまさしく「ドイツのドビュッシー」と呼ばれていたという事実を指摘している。ロスラヴェッツの作品は、しばしばすこぶる不協和だが、彼の作曲原理は、シェーンベルクのような12音の系統化は含んでいない。
失墜後のロスラヴェッツは、タシケント時代に、一時的に民謡的な素材の扱いにとりくみ、ウズベク初のバレエ音楽「綿花」を創り出した。最晩年のモスクワにおける創作は、特徴的な音楽語法の単純化が見られ、(たとえばヴァイオリンのための「24の前奏曲」のように)より古典的な発想や調性さえ受け入れているが、それでも独自の創作態度が貫かれている。
死後の評価
なきがらはヴァガンコヴォ墓地において眠っているが、長らく墓石に名を刻まれないままだった。ロスラヴェッツが没するや否や、その住居は、「プロレタリア音楽家」の一団によって荒らし回され、多くの自筆譜が没収されたが、残りはロスラヴェッツの未亡人によって保管された。それから30年の間ロスラヴェッツの名は、音楽事典から消し去られ、ソ連の音楽資料の中ではめったに見ることが出来なくなった。例外的に見つかった場合でも、「ロスラヴェッツの作品は、五線譜の無駄遣いである」といった調子であった。ロスラヴェッツの名は、1978年になってソ連の音楽辞典に復活したが、ロスラヴェッツ作品の重要性を説こうとする研究者は、1982年になっても攻撃された。しかしながらペレストロイカが始まると、ロスラヴェッツは創造的芸術家の一人として、名誉回復を受けた。それから多くの作品が復活し、出版譜や音源で出回るようになった。1990年になってようやく墓石に名が刻まれた。
どんどん橋 バンケット ドラント カステラ セルフ ターン トーチカ ピアサポタ リーバス クロラール キッチ かほく ビジター スピカ 大地の景色 モンゴル 真昼の月日 ドス上位 オーバリ マグネ クロマト モンタント やんぐこ セレス カウハイド ハナショ たそがれ フカロッ ヒノキ ベット カリス マニキ こちんだ バイサイド ラフ アウト タイガー キュラ やまびこ ブーム 大冒険 スケット トランス ハーレム クライ ジンマカオ バック ロスマリン キレイ モアイ
作曲様式
ロスラヴェッツは、音楽学者によっては、ひとえに独自の音列技法を発展させた作曲家として関心をもたれることもある。12音技法はたいていシェーンベルクやその門弟に結びつくのに対し、ロスラヴェッツのセリー体系は、シェーンベルク自身のものより数年早くに先立っているとされていたが、実際のところはアレクサンドル・スクリャービンの成熟期の作曲様式と密接に関連している。ロスラヴェッツは、シェーンベルクのようには主題形成の素材としてセリー方式を用いることをしなかったが、垂直方向のピッチの集合体として、6つの音からなる和音用い、これをロスラヴェッツ自身は「合成和音」と呼んだ。その着想はスクリャービンの神秘和音に触発されている。この「合成和音」と呼ばれる一種の音群が十二の音高に転置されることもあることから、彼の音楽が12音技法とされることもあったが、必ずしも十二回転置される訳ではなく、十二回転置されたとしても、何らかの法則に基づいて必然的に行われるわけではないため、彼の音楽を「12音技法」とする見方は一般的ではなくなってきている。[1] また、この「合成和音」を6音からなるセリーとして見なせば、その発想はスクリャービンの技法をさらにセリー的思考に近づけたと言えなくもない。[1]
ロスラヴェッツの初期作品において、このような合成和音は、伝統的な調性音楽の中から噴き出てくる程度であった。しかしながら1913年までに、調的な楽曲を作曲するかたわらで、合成和音のみで構成された楽曲を創作するようになる。
ロスラヴェッツの音楽は、失われたり破棄されてしまったと思われていた多くの楽譜が公開されると、近年になって再生を果たした。スクリャービンに影響されてはいるものの、個性的だからこそ、演奏会や録音においても需要が増しているといえよう。スクリャービンがほとんど手懸けなかったジャンルの創作にもロスラヴェッツは意欲を示し、代表作に2つのヴァイオリン協奏曲、5つの弦楽四重奏曲、2つのヴィオラ・ソナタ、2つのチェロ・ソナタ、6つのヴァイオリン・ソナタ、いくつかのピアノ三重奏曲、そして多くの歌曲がある。
管絃楽曲
交響詩「新月の瞬間」(1910年、ただし未完成)
ボードレールの詩による交響詩「男と海」(1921年)
交響曲(1922年、ただし未完)
ポール・ラファルグの詩による交響詩「地球の死」
ヴァイオリン協奏曲 第1番 (1925年)
交響詩「十月」(1927年)
交響詩「コムソモール」(1928年)
室内交響曲(1934~35年、アレクサンドル・ロスカートフにより補筆完成)
室内楽曲
ハープ、オーボエ、2つのヴィオラとチェロのための五重奏曲
弦楽四重奏曲 第3番(1920年)
ピアノ三重奏曲 第1番(作曲年代不明)
ピアノ三重奏曲 第2番(1920年)
ピアノ三重奏曲 第3番(1921年)
ピアノ三重奏曲 第4番(1927年)
ヴァイオリンとピアノのための「抒情詩 Poème lyrique 」
ヴァイオリン・ソナタ第1番(1913年)
ヴァイオリン・ソナタ第2番(1917年)
ヴァイオリン・ソナタ第3番
ヴァイオリン・ソナタ第4番(1920年)
ヴァイオリンとピアノのための3つの舞曲(1923年)
ヴァイオリンとピアノのための夜想曲(1935年)
ヴァイオリン・ソナタ第5番
ヴァイオリン・ソナタ第6番(1940年)
ヴァイオリンとピアノのための「24の前奏曲」(1941-1942)
ヴィオラ・ソナタ第1番、第2番(1920年代)
チェロとピアノのための「色白の娘たちの踊り」(1912年)
チェロとピアノのための「瞑想曲」(1921年)
チェロ・ソナタ第1番(1921年)
チェロ・ソナタ第2番(1921年)
ピアノ曲
ピアノ・ソナタ第1番(1914年)
ピアノ・ソナタ第2番(1916年)
ピアノ・ソナタ第3番
ピアノ・ソナタ第4番
ピアノ・ソナタ第5番(1923年)
3つの練習曲(1914年)
3つのコンポジション(1914年)
2つのコンポジション(1915年)
前奏曲(1915年)
2つの詩曲(1920年)
5つの前奏曲(1919年~1922年)
室内楽曲
バイロンによるカンタータ「天と地」(1912年、モスクワ音楽院における卒業制作)